会津若松と聞いて「白虎隊」を思い出す人は多いのではないでしょうか。
そう、会津若松といえば白虎隊自刃の地がある場所。
ですが、そんな悲しい道をたどる前、白虎隊の少年たちが学んでいた場所があります。それが「會津藩校 日新館」。
まだ年若い彼らがここにいたのだと思うと、なんだか感慨深いものがありますね。
本記事の情報は2023年10月時点のものです。最新の情報はご自身でご確認ください。
會津藩校 日新館とは?
会津若松にある「會津藩校 日新館」。
現在は観光スポットになっているこちらですが、かつては会津藩の子どもたちの学び舎として使われていました。
当時、会津藩に仕える藩士(上級藩士以上)のすべての子弟は、10歳になると日新館に入学するルールとなっていました。日新館では、論語・医学・弓術・砲術などあらゆる知識を養うことになります。
切腹の作法なども学んだというので、つまり日新館は武士としての心構えを身に付ける場所であるということですね。
このときの会津藩の方針は「日新館の教育目標は、人材の育成」でした。
日新館入学前に教えられる掟
会津藩の有名な掟のひとつに「ならぬことはならぬものです」というものがありますが、会津藩の子どもたちが日新館に入学する前から教えられているものもあります。
それがこちら。
「什の掟」です。
什の掟
一. 年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
一. 年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
一. 虚言(うそ)を言ふことはなりませぬ
一. 卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一. 弱い者をいぢめてはなりませぬ
一. 戸外で物を食べてはなりませぬ
一. 戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです
「嘘をつかないように」「卑怯な振る舞いはしないように」「弱い者いじめも駄目」あたりは当たり前のようでいて、しっかり言葉にされると厳しく聞こえますね。
この中でもっとも有名な文言「ならぬことはならぬものです」は、今風に言うと「してはいけないことはしてはいけないのです」といった感じでしょうか。
駄目なことは駄目、間違ったことをしてはいけないということです。
また、「什」言いつつ掟の数が「什(十)」に満たないのは、これは数字を表したものではないからです。
会津藩の同じ町に住む子どもたちは、6~9歳になると10人前後の集まりを作っていたそうです。これを「什(じゅう)」と呼んでいたので、「什の掟」と呼ばれています。
掟を破ると罰があった?
子どもたちの集まり「什」には「什長」という座長がいます。
これは什の中の年長者が務めるものですが、この什長は毎日掟を唱和し、違反した者がいないか尋ねます。
もしいた場合は「無念(むねん)」「竹篦(しっぺい)」「絶交(ぜっこう)」など、軽いものから重いものまでさまざまな罰が与えられたそうです。
會津藩校 日新館の歴史
会津藩だったときに建てられたものなので、かなり歴史が古い「會津藩校 日新館」。長い歴史の中でも、幕末が特に好きだという人にはたまらない場所です。
会津における教育の始まり
いずれ白虎隊に入隊する少年たちの学び舎は「會津藩校 日新館」でしたが、会津における教育の始まりは「稽古堂(けいこどう)」だったと言われています。
稽古堂は、儒学者・横田俊益の提案により、寛文4(1664)年につくられた学問所です。
武士と庶民の教育を目的としています。
その後、藩士教育のためにつくられた新たな学問所が、のちに日新館へと発展していくことになりました(同時に稽古堂は場所を移し、庶民教育中心の場になっていく)。
會津藩校 日新館の設立は1803年
会津藩五代藩主・松平容頌の時代。
家老・田中玄宰の「教育は百年の計にして会津藩の興隆は人材の養成にあり」という進言によって計画され、5カ年の歳月を費やしつくられました。
設立は享和3(1803)年。
数々の偉人が通っていた学び舎
會津藩校 日新館といえば白虎隊のイメージですが、ほかにも数々の偉人がここで学び、巣立っていきました。
- 秋月胤永(あきづき かずひさ):日新館では優秀な成績を残す。のちに東京大学予備門の教諭に、その後は熊本第五高等中学校の教諭になるなど、教育界に貢献した。通称は「秋月悌次郎(あきづき ていじろう)。
- 山川健次郎(やまかわ けんじろう):当時、15歳の少年まで含めていた白虎隊に所属するも、体力的な問題で15歳は除外することになり、除隊される。会津若松城での籠城戦時、「もっとも優秀な若者を2人逃がそう」となった折に選ばれたうちのひとり。その後、国費留学生としてアメリカに渡り、物理学の学位を取得。26歳のときには日本人としては初の物理学教授となる。
- 山本覚馬(やまもと かくま):「八重の桜」で有名な八重の兄。日新館では常に成績優秀者で、遊学(成績優秀者が他藩に留学する制度)により江戸で学ぶ。会津に戻ってくると日新館の教授に任命され、館内に蘭学所を設置する。晩年は目や足を患うも、新島襄と出会ったことから、同志社大学設立に尽力する。
だれもかれも魅力的な人物ばかりです。
まとめ:会津藩士の精神が根付く場所
「什の掟」をはじめ、幼いときからすでに会津藩士の精神を身につけている子どもたち。
掟を破ったときに行われる罰は、大人たちに指示されていたわけでなく、子どもたち自身がつくっていたというのですからすごいですよね。
彼らの清らかで真っ直ぐな心は、現代の会津っこたちにも受け継がれていることでしょう。
▼参考文献▼
1. 八重のふるさと福島県|八重が学んだ「精神」|秋月胤永
2. WEB歴史街道|山川健次郎の生涯~白虎隊から東大総長へ
3. 八重のふるさと|八重を育てた「家族」|山本覚馬
4. 會津藩校 日新館|日新館について
5. 会津若松観光ナビ – 會津藩校 日新館